⑧鉄の仮説の可能性について

鉄の仮説(Iron Hypothesis)は、1980年代後半に米国の海洋化学者ジョン・マーティンによって提唱されたもので、「海洋表層における植物プランクトンの増殖は鉄の供給によって制限されている」という考え方に基づいています。特に南極海や太平洋赤道域、北太平洋亜寒帯域などの「高栄養塩・低クロロフィル(HNLC)海域」では、窒素やリンなどの栄養塩が豊富にもかかわらず、植物プランクトンの量が少ないという現象が観察されてきました。

この不思議な現象の原因として、鉄の不足が一次生産(植物プランクトンの光合成)を制限しているという仮説が立てられました。鉄は光合成の電子伝達系や色素合成、窒素代謝などに不可欠な微量金属であり、植物プランクトンにとっては必須の栄養素です。しかし、外洋の表層では鉄の濃度が極めて低く、特に陸地から遠く離れた海域では鉄の供給が限られています。

この仮説を検証するために、1990年代以降、世界各地で鉄撒布実験が行われました。代表的なものに「IronEx」「SOIREE」「SEEDS」などがあり、実際に海水に微量の鉄を添加することで植物プランクトンの増殖を観察しました。結果として、鉄を添加した海域では珪藻類を中心とした植物プランクトンが急激に増殖し、海水中の二酸化炭素(CO₂)濃度が低下することが確認されました。

この現象は、鉄の仮説が正しい可能性を強く示唆するものであり、地球温暖化対策としての応用も検討されるようになりました。すなわち、HNLC海域に鉄を人工的に撒くことで植物プランクトンの光合成を促進し、大気中のCO₂を海洋に吸収させるというアイデアです。実際に、鉄撒布によってクロロフィル濃度が17倍に増加した事例も報告されており、海水が目に見えて緑色に変化するほどの効果がありました。

しかし、この仮説にはいくつかの重要な課題も存在します。まず、増加した植物プランクトンが海底に沈降して炭素を長期的に隔離するか、それとも表層で分解されて再びCO₂として放出されるかという点が不明です。もし分解されてしまえば、温暖化対策としての効果は限定的です。また、生態系への影響も慎重に評価する必要があります。鉄添加によって特定のプランクトン種が優占することで、食物連鎖や漁業資源に予期せぬ変化をもたらす可能性もあるのです。

さらに、鉄の化学形態や植物プランクトンによる利用可能性についても未解明の部分が多く、鉄が有機配位子と結合している状態やコロイド粒子として存在する場合の生物利用性など、詳細なメカニズムの解明が求められています。

総じて、鉄の仮説は海洋生態系の理解を深める上で非常に有意義なものであり、地球規模の炭素循環や気候変動対策に対する新たな視点を提供しています。ただし、その実用化には科学的・倫理的・環境的な慎重な検討が不可欠です。今後の研究では、鉄の供給による生態系の長期的な応答や炭素隔離の実効性、さらには国際的な管理体制の構築など、多面的な課題に取り組む必要があります。

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