③鉄分の流れが止まった森

鉄分の流れが止まった森──海と森をつなぐ命の循環の断絶

かつて日本の沿岸には、海と森が密接につながる豊かな生態系が広がっていた。森で育まれた養分が川を通じて海へと流れ込み、海の生物を育て、その海の恵みが再び人々の暮らしを支える──そんな循環が、長い年月をかけて築かれてきた。しかし近年、この循環の要となる「鉄分の流れ」が、静かに、しかし確実に止まりつつある。

鉄分は、植物の光合成や海洋プランクトンの成長に不可欠な微量元素である。特に海では、鉄分が不足すると植物プランクトンの増殖が抑制され、食物連鎖の基盤が揺らぐ。日本の海岸近くに広がる「藻場」──海藻が繁茂する場所──も、鉄分の供給がなければ衰退してしまう。では、その鉄分はどこから来るのか。実は、森の落ち葉や土壌に含まれる腐植酸鉄が、雨や川の流れによって海へと運ばれているのだ。

この鉄分の供給源となるのが、広葉樹を中心とした自然林である。ブナやミズナラなどの落葉広葉樹は、豊かな腐植層を形成し、鉄分を含む有機物を生み出す。ところが、戦後の植林政策や経済的な理由から、こうした自然林はスギやヒノキの人工林へと置き換えられてきた。人工林は腐植層が薄く、鉄分の供給能力が著しく低い。さらに、間伐不足や放置によって林床が荒廃し、鉄分の流出はますます減少している。

鉄分の流れが止まった森は、見た目には緑豊かに見えるかもしれない。しかしその内実は、海とのつながりを失った「孤立した森」だ。こうした森の存在は、海の環境にも深刻な影響を及ぼす。藻場の衰退は、魚介類の産卵場所や稚魚の隠れ家を失わせ、漁獲量の減少につながる。実際、かつて豊漁だった沿岸地域で、漁業者が「海が痩せた」と感じるようになった背景には、森の変化がある。

この問題に気づいた一部の地域では、「海のための森づくり」が始まっている。広葉樹の植樹や間伐による森の再生、鉄分を含む腐植酸の供給を促す取り組みが、漁業者と林業者の協働によって進められている。たとえば、岩手県の「森は海の恋人」運動は、海と森の関係を再認識させる象徴的な活動として全国に広がりを見せている。

鉄分の流れが止まった森は、単なる環境問題ではない。それは、私たちの暮らしの根底にある「つながりの喪失」を象徴している。森と海、人と自然、過去と未来──それらを再び結び直すためには、科学的な理解とともに、文化的な共感が必要だ。森を再生することは、海を育てることであり、ひいては人の命を支えることでもある。

今、私たちに求められているのは、鉄分の流れを取り戻すことだけではない。その背後にある「命の循環」を見つめ直し、持続可能な関係性を築くことだ。森が海へと語りかける声に耳を澄ませるとき、私たちは自然との対話を取り戻すことができるのかもしれない。

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